鹿児島大空襲

今日は、広島原爆の日。
そして昭和20年8月6日は、鹿児島大空襲があった日でもあります。

昭和20年に入ってから、私が住む鹿児島市はたびたび空襲に見舞われました。
鹿児島には知覧を代表する特攻基地があり、
また九州以北や本州に向かうB-29爆撃機の通り道だったこともあって
特に空襲が多かったようです。

空襲では多くの方が犠牲になりましたが、九死に一生を得た方も大勢いると思います。
私もその中のひとり…今日は重たい話になりますが、どうかお付き合いください。

あの頃は空襲に備えて、各所に防空壕が掘られ、うちの庭にも家族で防空壕を作りました。
庭の隅に穴を掘り、その上に木板を置いて土を盛ったもので
中はタタミ一畳分ぐらい、5人も入ればギュウギュウでした。

あれは忘れもしない6月17日のことです。当時、私は11歳。
母は川内(せんだい)の実家に里帰りしていて、家にいるのは姉たちと私の4人だけでした。

確か夜の11時頃だったと思います。
空襲警報のサイレンも鳴っていないのに、それは突然の爆音で始まりました。

「A子ちゃん、起きなさーいッ! 早く防空壕へーッ!」

姉の叫び声で布団から飛び起きて、咄嗟に防空頭巾を被り、姉たちと庭の防空壕へ駆け込みました。

我が家では壕に入るのは年の若い順で、末っ子の私がいつも一番奥になります。
そしていつもならギュウギュウ詰めで、奥の土壁に寄りかかってしゃがんでいましたが
その日は母がいない分だけ余裕があったので
一番奥の私の指定席は、少し空いた状態になっていました。

外ではザーッ!ザーッ!と絶え間なく投下される焼夷弾の音が鳴り響き、
壕の入口の隙間からは昼ではないかと勘違いするほど、閃光が漏れ入ってきます。

今までの空襲でしたら、長くても15分ほどでしたが
その日の空襲は一向に止む気配がありせん。

もう生きた心地がせず、姉に寄り添ってぶるぶると震えておりましたが
私はいつの間にかウトウトしていたようです。

突然、耳元でシュルシュルシュル!!という鼓膜をつんざく音が轟きました。
目を開けると私のすぐ横に、 地面から潜り込んだ六角柱の金属棒である焼夷弾が
壕の土壁を押し破って、20センチほどが突き出ていました。
そこはまさに私の指定席で、いつも背を向けて身体を寄せていたところです。

「外に出てーーーッ!」

姉の声と同時に壕を飛び出たとたん、焼夷弾は炸裂して火を噴き、防空壕は無残に崩れ落ちました。

それからのことはよく覚えていません。
気がついたら翌朝になっていて
焼け野原と化した市内を、トラックいっぱいに積まれた亡骸が運ばれて行くのを見て
自分が生きていることを実感し、空襲の惨状を目の辺りにしたのでした。

なおこの空襲は、鹿児島市最大の空襲被害となり
1時間に10万個以上の焼夷弾が投下されて、死傷者は6千人近くに及んだそうです。

そして72年前の今日の空襲で、我が家は全焼してなくなってしまいましたが
私はすでに疎開していて、家族も何とか難を逃れたのでした。

あの日、壕の中で母がいなくて心細かったことを覚えていますが
もし母がいたら、私は壕の指定席で焼夷弾の直撃を食らって死んでいたでしょう。

いつの世でも、ほんの偶然で生死を分けることがあります。
ただ戦争に限っていえば、母がいたら…右に逃げていたら…話しかけなかったら…など
ささいな偶然や何気ない行動に、死がつきまとい
常に死を意識しなくてはいけないことが異常であり、恐怖であって、
あのような思いは、子々孫々誰にも経験して欲しくありません。

空襲は、脳裏から消し去りたい出来事ではありますが
戦後72年を迎え、やはり忘れてはいけない記憶のように思い、
8月6日の今日、綴ってみた次第です。

あの恐怖の中で、亡くなられた方々のご冥福を心より祈りながら…黙祷。
 
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